NOBUYAさんと私は、会話した のべ時間は、ほんのわずか。
なのだけど、私は今回 NOBUYAさんから めちゃくちゃ いただいたのです。
技術的にも精神的にも、真摯に真剣に 向き合ってくれた感覚。
純粋に 喜んで楽しんで 応援してくれた感覚。
どれだけ私たちが、実際の あの場も、これからのことでも 力をいただいたか。
ARTSHOWからの帰り道、私たちは何度も「めちゃくちゃいただいたねぇ〜」と口にしていた。
NOBUYAさん旅立ちの翌日、私には こんなイメージが浮かんだ。
NOBUYAさんが 巨大なミラーボールのようなもので、ミラーボールの一つの面が私とのぶやさんの窓で、そこから愛が、どどどーーーっと流れてきている。
∀KIKOさんへの愛で 見せてくれたもの。
存在としての愛。
NOBUYAさん個人の、そして 男性の「ここまで?!」と驚くほどの 広くて深い愛。
それが、どどーっと私に流れて溢れてきている。
その面(窓)が 溢れて溢れて 発光している。
NOBUYAさんが 私(たち)に与え「よう」としたかはわからない。
NOBUYAさんは NOBUYAさんとして 「いた」。それだけなのかもしれない。
ただ、私は めちゃめちゃ受け取ったのだ。
「悲しみ」という言葉ではくくれない 涙が その日も たくさん溢れた。
私との窓がこんなふうに溢れて発光しているように、NOBUYAさんの旅立ちを知った方たちとも、こういうことが起こっているだろうと思った。
思いやエナジーが交流して、ひとつひとつの窓が発光して、全体が大きな星のように 輝きを放っている、と。。。
私はその日、∀KIKOさんの絵の風呂敷「永遠の星」を注文した。(※ホームのこの記事のタイトル写真)
*
それから 数日して、私は 「あれ?!」と気づいた。
自分の感覚が変わっていることに。
私は、ずっと「わかってもらえない」という悲しみを持っていた。
特に、男の人に対して。
だいぶ薄らいできているのだが、なかなか消えるものではない。
「天然」というか、「だってそうしたいから」「なんか気になる」「直感」「衝動」「体感」「なぜかそうなっちゃった」そんなことばかりでやっている私。
写真も楽器も その他のことでも…。
それが私の 得難い質 だと思っていながらも、自分に自信がなかった。
自信がないからこそ、自分とは違うやり方… 理論や伝統や知識、精密さや技術、練習、正しさ、完成度(男性が得意とするところ)に対して、コンプレックスを持ち、
同時に、自分が自分の価値を確かめるために、それを反動にして(無意識に)、 自分を確認してきた部分があったと思う。
(ややこしい!!!;´Д`)
だけど、今、「はて?」と。
私の中のその反動が 希薄になっている気がする。
違いの反動がなくても、私 は 私 である。
自分には、まだまだなこと、できないこと、たくさんある。(というか ほとんどだ)。それも知っている。
そのことと、私 が 私 であることはまた別で。
あと、男性に対して に限らず、私(私たち)に興味がない、響かない人に対して うっすら感じていた「悲しみ」「残念な気持ち」が……なんだろ? ない? 意識が向かない? フラット?
うまく言えないけど、「未熟であること」と 「完全であること」が、同時に私の中にある。
だからこそ、安心して私でいながら、進んでいける。。。
何がどうしてこうなったのかはわからない。
でも、NOBUYAさんのことが 大きく影響しているのは確かなのです。
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